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基礎知識床の間の精神性

◎床の間は、四季の行祭事や伝統を受け継ぐシンボルゾーン。日本人の精神性の礎となる場所。
◎千利休により、今日につながる床の間の形態や飾り方が確立された。

床の間の起源

「床」とは、本来、「臥 (寝)床」とか「物を置く台」などを意味する言葉です。脇床の棚には工芸品、書院の出文机(いただしふづくえ)や地袋机には硯や筆などの文具を飾ります。

床の間のルーツには諸説ありますが、大きく二説があります。鎌倉・室町時代に禅僧の僧侶の住まいだった釈家住宅と、平安時代に起こった貴族や武士の住まい寝殿造りから発生したというものです。

釈家では、板の間の正面壁の前に押板という一枚板を敷き、床子(御床)という脚付の台の上に燭台・香炉・花瓶の三具足を飾りました。また、後ろの壁には仏画や師の御影絵や仏語の墨蹟を飾り、それに対面しながら学びました。また、大陸からの工芸品などを飾る厨子棚や二階棚などを設けました。出窓風の明かり障子(室町時代以降は、書院障子と呼ぶ)の手前に出文机を置いて、日常の学びの場にしました。

この押板や床子が床板に、厨子棚や二階棚などの棚が床脇に、明かり障子と出文机が付書院(出書院・本書院・明かり書院)になったといわれています。

日本で最初の建築様式である寝殿造りにも床の間の起源が見られます。板の間の中央部に設けられた貴人の臥床(帳台)やその側面壁に敷居と鴨居を入れ、襖を中央から左右に引き分けられるようにした寝室への入口の装飾が上段床や帳台構えのルーツだという説があります。

ただし、室町時代初期までは押板と上段床はまだ別々の物でした。明かり障子・出文机・床の間・棚なども別々の部屋にありました。それが次第に一箇所にまとめられ、座敷飾りとして「床の間(床脇・書院・帳台構え)」になったのです。

土壁・蹴込床・下地窓の創設

床の間の誕生以来、床の間の壁は彩色画・墨絵・金泥(きんでい)紙・鳥の子紙といった貼り付け壁が正式の物でした。利休も、利休鼠色などと呼ばれる薄墨色の紙などの貼り付け壁を使っていましたが、晩年から土壁(荒壁)を使い、そこに額や軸を掛けるようになりました。

また、長押を廃止し、漆塗りの床框を磨丸太や档あて丸太・錆さび丸太・名栗(なぐり)・竹などにかえたり、踏込床・洞床・枡床・下地窓などを創設したのも利休だといわれています。

千利休の影響/床飾りの変化

当初から床飾りの中心は絵画や法語の墨蹟の額や掛け軸でした。侘び茶の創始者である村田珠光(しゅこう)から武野紹鷗(じょうおう)までの時代は、絵画を第一の床飾りとしていました。

これを変えたのが千利休です。利休は「茶禅一味」の思想から求道の精神を大切に、それを法語の墨蹟を第一に変え、さらに侘び茶を追い求めていく中で、季節の花を第一の床飾りに位置づけました。季節に応じた「時の賞しょうがん翫」である草花こそ、主人のもてなしの心を表すのに最適と考えたのです。床壁に竹筒を吊るし、掛け軸ではなく花一輪を生けるようにした床の間もあります。